明治時代〜戦前

四国の西南端、宿毛湾に面した宿毛市は、日本の夕日100選にも選ばれた「だるま夕日」が見られることで有名な街。古くは九州と四国の経済・文化の接点となる、にぎやかな街でした。

菱田家はここ宿毛で明治時代から家業として呉服商を営み、幡多地域(宿毛市四万十市周辺)でも有数の呉服屋として何人もの縫子さんを雇い、地域の人たちの衣生活を一手に引き受けていました。

商売は繁盛し、大型の帆船を手に入れて海運業などの副業でも儲けていました。

戦時中〜戦後〜創業

昭和18年頃、軍部の金属類の供出令により「針」も「糸」も供出されてなくなり、雇っていた縫い子さんもみな解雇せざるを得ず、現社長の父菱田喜久治は再起をあきらめ廃業を決意しました。

巷には米もなく、今日食べるのにも困る食糧難でした。「まずは食べるものが必要だ。宿毛の人たちにおいしいパンを焼いて届けよう。食べ物の商売なら将来も安泰だ」と、パン屋を開業することを決意しました。

米はなくても、小麦は配給で比較的安定して手に入っていたからです。当時政府が進めていた学校給食の普及を見越した事業でもありました。当時の設備は、パンを焼く窯は煉瓦と土でつくったような粗末な窯でおがくずや薪をくべて焼くものでした。木材の確保も困難でとなりの愛媛県の山間部から薪を調達してくることもあったそうです。

当然パンのミキサーもなく、大きな木製の箱の中で職人さんがパン生地を箱の底に投げつけてはまたこね回し、一つ一つ手で切ってパンの形に成型し焼成する手作りの時代でした。

昭和30年代頃

昭和30年代ごろになってくると宿毛地域だけで10軒ものベーカリーがパンを焼いていました。販売先は市内のたばこ屋さんや食料品店などですが、競争が激しく、価格の安さとサービスを競い合って体力を消耗し、やがて廃業するところが一つ二つと表れはじめました。

当社は、祖父で社長の菱田喜久治と8人の子供たちが手伝う家族工業の小さなベーカリーで使用人が少なかったので原価を低く抑えて最後まで勝ち残っていくことができました。当時の配達は自転車に箱を乗せてパンが乾燥しないように水あめを塗ってつやをだして販売して回ってました。当初は自転車の荷台に括り付けた何段もの木箱にパンを詰め込んでどこまでも自力で漕いでいました。

雨でパンが濡れてしまい台無しになるなどの失敗も多々ありました。やがてバイクになり、道路は舗装されていない時代でしたが、宿毛市内各地に配達できるように、範囲が拡大していきました。

昭和40年代頃

昭和40年初めにはようやく学校給食がこの地域でも普及してきて、菱田ベーカリーはこのころから地域でいち早く機械化をを進めていき、安定した品質の良いパンを大量に生産できる体制を整えていきました。

高知県の学校給食会の指定工場にもなり、昭和44年に三原村の学校給食もはじまり現在とは違う細い山道を1日かけて配達する時代がありました。昭和45年には現社長の兄菱田拓が「中村ひしだベーカリー」を設立して、中村でも学校給食をはじめ地元のスーパーや喫茶店、小売店でパンを販売していき、事業は安定成長期に入っていきました。

当時のラインナップは、コッペパンにアンパン、ジャムパン、クリームパンなどオーソドックスなパンがほとんど。中でもバタークリームを挟んだパンは爆発的にヒットしました。

宿毛名物の「羊羹ぱん」ができたのもこのころです。また、40年代後半には洋食化が進んで学校だけでなく家庭や喫茶店などでもパンが食べられるようになり、食パンの売り上げが急速に伸びていきました。

そこで増え続ける需要に応えるために、食パンが一度に100本も焼ける大型オーブンを導入したのをはじめ、機械化を積極的に進めていきました。地元の鉄工所にお願いして改良をしてもらったそうです。こうして導入した機械の修理には、わざわざ東京や名古屋のメーカーから技術者を呼ぶこともできません。

そこで地元の機械屋さんや電気屋さんに頼んでメンテナンスをしてもらっていました。ただし、機械への専門的な知識が足りなかったため、中には1000万円もかけて設置した機械が結局使い物にならなかったという笑えないエピソードもあります。

昭和50年代~平成初期

昭和50年代までは、宿毛、中村(現四万十市)地域の食料品店や地元スーパーで販売するパンのほとんど菱田ベーカリーがまかなっていたこともありました。

工場も宿毛市片島から高砂へ移転し設備も充実させていきます。また、昭和58年には宿毛市にも給食センターができ宿毛市内の小中学校は給食がはじまりました。しかし、昭和60年代に入り、超大手のパンメーカーがこの地方にも進出してきたことから様相は一変。地元スーパーのパン売り場も大手ブランドのパンに圧倒され、菱田ベーカリーのパンは徐々に減少傾向になっていきます。

平成7年頃には、宿毛市にも旧中村市大型スーパーが進出。地元の食料品店や小型のスーパーは相次いで閉店していきました。学校や病院、施設の給食用のパンは安定的な需要が維持できていましたが、小売り用のパンは徐々に減少していき最盛期の半分まで落ち込んでいきます。

平成10年~20年代

そこで平成13年には本社工場を現在の宿毛市和田に移転、製造設備の見直しを進めていきました。平成14年に高知自動車道が須崎市まで延伸。宿毛市から高知市内まで2時間半あまりとなり「陸の孤島」といった状況が少し解消されました。

一般道の整備も進んだため、配送可能なエリアが拡大。これまでの宿毛・四万十地区から愛媛県南予地域、高知市内まで市場として取り込むことが可能になりました。市場の拡大に対応するためにラインを効率化し、安定生産の為のマニュアルを徹底して、製造の時間を早朝から一気に焼き上げて短時間で納品できるように製造から配送システムを構築していきました。菱田ベーカリーの焼きたてのパンは「触るとやわらかくて暖かい」と評されています。

平成20年~現在

当社は今、地元スーパーだけでなくコンビニエンスストア、道の駅等への販売とともに、老人ホームや学校への訪問販売など地域密着型でできたての美味しいパンをお届けしています。

しかし、高知県は全国でも少子高齢化の先進県。中でも県都から遠く離れた宿毛・四万十地域は人口減少が急速に進んでいます。従来のパンづくり、売り方では大手パンメーカーには敵わず、淘汰が避けられません。高知県・当地ならではのパン、よそにないオリジナルのパンで独自のマーケットを開拓していくことが、私たちの使命だと確信して最近では関東のスーパーや東京都内の駅ナカ催事など地域外への商品展開も積極的に取り組んでいます。

近年は、高知県産の一次産品を取り入れたご当地パンとして密かに注目されている、「羊羹ばん」のPRなど、一歩先を読んだ商品戦略、市場戦略に取り組んでいます。当社はこれからも、地域に根差して、地域の皆さんに喜ばれるパンをお届けしていけるよう努力いたします。